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車離れと言うけれど

最近の報道などでよく「若者の車離れ」という表現を目にすることが増えた
若者が車を買ってくれないから業績が伸びないということらしい

それに対して「お金が無いから買えない」というネット上の意見ももっともに思える

しかし「お金が無いから買えない」というのは基本的に「欲しいけどお金が無いから買えない」という場合にこそ当てはまると思うのだが ネットの意見をざっと眺めていると むしろ「車に興味が無い」という人が増えているように感じられる

そして都市部で生活する人の場合は「車を所有するメリットよりも負担の方が大きいので無駄である」という合理的な意見も多く それが車の購入にストップをかけている要因のように思える

二輪車(ここではオートバイのこと)の場合はもっと悲惨で 街中で見かける機会が少なくなったと思えるほど減っているし 実際に台数も売れていないようだ

十数年前までは車もバイクも普通に売れていたと思うのに なんでこうなったのかちょっと考えてみた

二輪車の場合は理由を推察しやすい

かつて二輪車は都市部においての便利な移動道具だった
車ほどの駐車スペースを必要としないし ちょっとした買い物や食事程度なら店近くの路上に駐めておいても大丈夫だった
渋滞も車ほど影響を受けないので たいてい予測した時間通りに行動できるというメリットもあった

しかしそれが2006年から始まった駐車監視員制度によって厳しく取り締まられて 気軽に路上に置いておくことができなくなった
実際に駐車監視員制度が始まってすぐの頃 大きめの歩道にたくさん置いてあった二輪車がきれいに無くなったのを覚えている
当時は「やりすぎ」と言われるほど一気に取り締まりが強化されたので それを理由に二輪車を手放したケースも多かったのではないだろうか
二輪車のメリットである「とりあえず気軽に駐めて用事を済ます」ということがやりにくくなったのだから仕方がない

現在でも二輪車の駐車スペースは増えていないようで 駐車のしづらさは四輪車以上になってしまっているようだ

実際に私も二輪車を買おうと思ったことはあったが あまりメリットがないことに気づいてやめたという経験がある
個人的には中型クラスの二輪車にまた乗ってみたい気持ちはあるのだが いかに趣味のものであったとしても 負担が楽しさを大きく上回ってしまうと高いお金を出してまで購入する気にはなれないという典型だろう

そして四輪車の場合

私は約15年ぶりにマイカーを購入したわけだが 車を購入する前に漠然と考えていた「昔よく行ったあのラーメン屋に行ってみよう」とか「あの洋服屋がまだあったら行ってみたい」とかを未だに実行できないでいる
目的の場所に近づくところまではいいのだが 駐車場が用意されていないと駐める場所に迷って通り過ぎてしまうからだ
それ以外にも行ってみたい場所があった場合はまず駐車場がどうなっているかをGoogleマップなどで確認してから向かうようになった
都内や近郊の市街地に目的地を設定したならどこでも似たような状況になるだろう

それほど頻繁に運転しているわけでもない私でもこうなのだから 駐車監視員制度の車社会への影響は少なくないと思う

確かに駐車禁止区域での路上駐車は違法だし それを取り締まるのは必然なのかもしれないが 警察が直にやってる頃ぐらいの取り締まり頻度で良かったんじゃないかと思う
駐車監視員の報酬が時給制とかだったら程よい緩さもあっただろうが どう考えても実績給だろうから 状況を考えて取り締まり対象を見過ごす……なんて出来るわけがない

それにたかだか700円~1000円程度のラーメンを食べるためだけに都内のバカ高い駐車料金を払うのも無駄に思えるので 自然にそういった街道沿いで無料駐車場のないラーメン屋などを避けるようになってしまう
せっかく駅前地域から大きく外れた家賃の安い場所に店を構えて価格を抑えるような商売をしていたとしても 客が来なければ話にならない
昔はラーメン戦争なんて呼ばれた環七や環八にたくさんあったラーメン屋は商売を続けていられるのだろうかと心配になってしまう

車は二輪だろうが四輪だろうが 駐車をしなければ用事を足すことはできないものなので そこに重すぎる負担があったら所有するメリットを簡単に上回ってしまうだろう
そもそも都市部で個人が車を持つということは趣味の部分が大きいので メリットが負担を上回っているか よほどの物好きじゃない限り真っ先に切り捨てられるものだと思う

最近は駐車監視員の取り締まりも件数低下の傾向にあるらしいが これは取り締まりがいくらか緩くなったこと以上に 制度導入直後の手当たり次第というイメージがドライバーに焼き付いているのも原因していると思う
そしてそれは結果的に車を購入してまで持ちたいという気持ちを阻害していると思うのだ
都市部に暮らす人にとってみれば 車を買わない理由なんていくらでも見つけられる
(車両価格が高い 維持費が高い 駐車場が高い 別に無くても困らない……等々)

そして経済的に余裕のある世代が車を買わなくなると適度な価格の中古車も出回らなくなるので 若い世代が買える車も減ってしまうという連鎖

車自体に魅力がなくなっているという意見もあり私もそう思うが 実用的なメリットが感じられない方が切実なのではないだろうか

例えば昔 職場やサークルなどで小旅行をしようと計画した場合
参加者の数人が自分の車を持ち出して 車を持っていない人を乗せる……なんてことがよくあった
ミニバンやSUV 中にはスポーツタイプのクーペなどが集まったりして ちょっとした自慢大会が始まったりする
車に興味の無かった参加者も 乗せられて初めて車の趣味性とかに気づいたりする

こんな風にちょっとずつ車を持つメリットが伝わっていく場面がいろんなところであったと思うのだが 今はある程度の人数が集まるとミニバンをレンタルしてきたりして経費を抑える方法に行くのが普通になってる気がする

車を個人で所有するというのは 通勤で必要とか日常生活に必須とかの場合を除くと 趣味として価値があるかどうかが問われてくると思う
そういうのは経済的な合理性だとか実用性だけで考えたら簡単に否定されてしまうものなので 車自体に魅力があって「どうしても欲しい」という欲求を起こされるのは重要だと思う
しかし それ以上に取り締まりによって縮こまってしまったドライバーの意識を一度解放してあげられるような方策は必要なんじゃ無いだろうか

でも今は本音(利用者の意見とか)を建前(法律)が駆逐するような時代なのでなかなか難しいのかもしれない

また変な言葉が

先日 朝の情報番組をながめていたら とある事件の説明で「匿名化ソフト」という言葉が出てきた
事件の内容については特に興味がなかったのだが その言葉が気になったのでよく見てみた……

その匿名化ソフトなるものはプロキシサーバーのことを言っているらしい

悪意のある書き込みを行った人物を特定したくても「匿名化ソフト」を利用して海外の複数の地点を経由しているために難しいと説明していたのだが これって海外ドラマのクリミナル・マインドやCSI:サイバーとかでよく出てくる「海外の複数のプロキシサーバーを経由しているから〜〜」といった表現を無理に日本語化したのだろう

いや……匿名化ソフトじゃむしろ分かり難いと思うのだが……

というかプロキシサーバー(またはプロクシサーバーとか略語で「串」とか)の原理を説明しだしたらニュース報道程度の時間じゃ足りないから分かりやすくしたつもりかもしれないが プロキシサーバーの動作とか そもそもインターネットがDNSによってつながってる仕組みとかが 今回のような話題にテレビで初めて触れるような人に理解できるとは思えないのだから 誤解を生みそうな「匿名化ソフト」みたいな名前をつけるのは良くないと思う
普通に「プロキシサーバー」という表現を使っておけば興味を持った人はネットで詳しく調べるだろうし そうでもない人はスルーするだろう

思えばその昔 Windows95が発売されたときにOS(オーエス:オペレーティングシステム)をいう本来の名称を使わずにマスコミは「基本ソフト」なんて珍妙な呼び名を付けてしまった
OSが無いとコンピュータは動かせないのだから基本ソフトという表現も間違いではないのだが コンピュータに詳しい人も よくわからない人のどちらにもピンとこなかった言葉だったと思う……残念ながら今でも使われているが

コンピュータ関連ではいろいろ無理な日本語化や カタカナでもちょっと意味がズレた表現が他にもある

例えばホームページ

本来はウェブサイトのトップインデックスが置いてあるページを「ホームページ」と呼ぶものだと思うが いつの間にかウェブサイトのページを区別無く「ホームページ」 と言うようになってしまった
私も相手の知識レベルに合わせて本来はホームページじゃないウェブサイトのことを「ホームページ」と表現することはあるが そのときは背中がムズムズするのを我慢してる状態である

逆に実際には利用していながらも言葉が浸透していない「ブラウザ」とかの例もある
ウェブサイトを閲覧するためには必須のブラウザが 言葉が浸透していないせいで 「インターネットエクスプローラを立ち上げて……え?!アイコンがない??」
「あ インターネットって書いてあるアイコンです」 とか 「サファリを立ち上げて」とか 相手の状況を想像するエスパー回答をしなくてはならないケースがあって 「ブラウザを立ち上げてください」の一言で済めばどんなに楽だろうと思ったことは多々あるのだ

ちなみに「ソフトを立ち上げて」と伝えても本人が立ち上がったりしないことは確認済みなのが前提だが……

そういえばコンピュータ関連ではないが マスコミがちょっと曲がった呼び方をしてるものに「ドローン」があった
おそらくテレビでドローンを知った多くの人は ラジコンヘリのことをドローンを思っているだろう
本来のドローンは「自立航行できる機械」の意味で形状は関係ないはずだが 4枚羽のラジコンヘリをそう呼ぶようになってしまった流れは修正されそうにない
アニメ「サイコパス」に出てきた警官ドローンのようなものが本当に出てきたとしたら何と呼ぶつもりなのか今から楽しみではある

それにしても今まで一般的じゃなかったものが登場して話題になったときにマスコミが斜め上の名前を付ける慣習はこれからも続くのだろうか
普通にそのまま本来の名称をカタカナで紹介したほうが 興味を持った人にとっても情報を得やすくなると思う

とりあえず「匿名化ソフト」なる変な言葉は浸透して欲しくない
もしクリミナル・マインドやCSI:サイバーのようなサスペンスで「匿名化ソフト」なんて台詞が出てきたら口を開けたまま放心してしまうかもしれない

車がドライバーを育てる……は昔の話に

つい15年ぐらいまでは車の運転について 向上心が有る人と無い人では運転技術にかなりの差があったと思う
その当時以前のスポーツカーやGTカーはパワーがある分ちょっと扱いが難しくて 車をスムーズに動かせるように慣れていくだけでも自然に運転が上手くなっていったからだ
初心者マークを付けている一年間は本当に運転に慣れる期間で その期間に上手くなろうと努力した人とそうでない人では運転技術にけっこう差ができたものだった

それが今はどうだろう

トルク重視で扱いやすいエンジンを搭載し 性能の良いブレーキに横滑り防止装置
自動ブレーキも装備されていたり車線を外せば警告してくれたり
そのうち自動運転ももっと進化するだろう

ここまで至れり尽くせりの車だと 免許を取って間もなくの人でも普通に運転できてしまうだろう
車メーカーも交通法規関連の人たちもそういうのを目指しているのだろうから 問題は無いのかもしれないのだが……

ただ 人間というのは努力もせずに目的が達成できると その分野については進歩しなくなってしまうものだと思う
だからこの先 安全装備が充実していくのに比例して 初心者の状態からほとんど進歩しないままのドライバーが量産されていくような気がするのだ

車の走る曲がる止まるという基本動作が自動で制御されるようになったら その分だけドライバーの神経が注意力に振り分けられて安全になる?
それは無理だろう
いつでも居眠りできるような状態の精神で注意力が高まるはずがない

そして車の運転が楽になるにつれて楽しむ要素が失われていき 昔のような運転好きという人種は絶滅の危機をむかえるかもしれない
そうなると車は単なる移動手段になってしまって燃費と内装の充実度ばか語られるようになるだろう
……今でも既にそうなってるか

長々と何が言いたいのかと言えば 各メーカーが発売する車種の中に一つぐらいは 普通に動かすだけでもちょっと難しいぐらいのものがあっても良いんじゃないかと思ったのだ
そしてその難しさの代償に 楽しめるパワーと操作性がある昔ながらのスポーツカー

そのうち内燃機関を持つ自動車は乗れなくなってしまうかもしれないので 今のうちに面白いと思える車が出てほしいと切に願う

温泉マーク騒動を見て

温泉マークを変更する動きがあるとか

日本人には馴染み深い温泉マークが「外国人には分かり難い」という理由で国際的に通用するタイプに変更するのだとか

理由は分からないでもないが それで良いのだろうか?

だったらそもそも外国人旅行者にとって 観光地の日本語はさっぱり分からないだろうし 日本の観光地によくある「暗黙のルール」等は理解しがたいものだろう

でも 温泉マークが分かり難いからといって旅行は楽しめないのだろうか

そりゃ誤解からくる小さなミスはあるだろう

テレビのインタビューに答えていた外国人旅行者は「温かい飲み物から湯気が出ている様子に見える」とか言っていたので 日本風のカフェだと思って入ったら温泉だった……なんて間違いはあるかもしれないが それはむしろ旅の笑えるお土産話になるようなミスで 命に関わるような重大な問題は起きそうにない

それよりも日本人に長い間馴染んできた温泉マークを外国人旅行者に分かりやすくという理由だけで変えるというのは 日本人の文化というか正体みたいなものを捨ててしまう行為に思えてしまう

これまでも 欧米人の日本人に対するイメージというのは明確なものが無さそうに思えている
海外ドラマなどで日本を舞台にしたり日本から輸入された文化が けっこうとんでもない表現をされているのを見てモヤモヤすることも多いが これって日本人の気質みたいなものが伝わってないのが原因で「日本人はこんな感じ」っていうのがイメージされてないんじゃないかと思う

日本人が作ったものは 家電や自動車に限らず 寿司とか最近ではラーメンも海外進出して評判を得ているようだが それを作った日本人はどんな気質なのかと問われて ハッキリ答えられる欧米人は少ないんじゃないかと思う

日本製の家電や自動車が世界に浸透していったのは 品質の高さや価格の安さの他に 販売ターゲットにした国の生活習慣を研究して使いやすさを追求していった結果だと聞いている

2020年の東京オリンピックを招致したときの「お・も・て・な・し」だって「相手に合わせた接待」という日本人らしい気配り(悪く言えば媚び)を表したものだろう

そう考えると外国人旅行者に合わせて温泉マークを変えるというのも 日本人らしい気配りの現れと言えなくもないのだが……

でも本当にそれでいいのか?と思ってしまう

例えば旅行に行った先で特に不満に思うこともなく トラブルが起こることもなく 全てが滞りなく進行したとしよう

旅行中は至極快適で それなりのお土産も買いそろえて無事に帰宅できたとしよう

しかしこれ……帰宅した翌日には思い出がきれいさっぱり消えてしまうんじゃないだろうか

自分の行動に迎合されつくした場所だと“新鮮な驚き”は無いだろうし 後から笑える程度の苦労話も無いのでは思い出に残らない気がする

だからわざわざ外国から遊びに来てくれた人たちに「日本の場合はこうなんだ へぇ~!」と思ってもらえる日本らしいものは残していくべきなんじゃないかと思ったのだ

ロービーム・ハイビーム

最近急に「車のヘッドライトはハイビームが標準で ロービームは対向車とすれ違う時などに使うもの」とかを国だか警察だかが主張し始めた

地方によってはハイビームにしていない車の取り締まりも始まるだとか始まっただとか

これについてはネット等でも議論が巻き起こっているようだ

夜間の対向車もいない暗い道路では積極的にハイビームにすべきというのに異論はないが 今回反発を受けているのは“車のヘッドライトはハイビーム標準で”という部分ではないだろうか

法律では確かにハイビームが基準でロービームは補助的な記載があるようだが よほど交通量が少ない郊外とかでない限りロービームで走ることが多いのだから 感覚的にロービームが基準になってる人の方が多いだろうと推察できる

そこにいきなり「ハイビームを標準としてロービームは補助なんですよ」と言われても「理解はできるが納得できない」という状態になるのは仕方がないと思うのだ

しかも警察が積極的に取り締まるらしいとまで言われては 交通事故防止のためと言うよりも 警察の取り締まり項目を増やしたいからという目的に見えてしまうのだがどうだろう

さらに面倒なことは「遵法精神を盾に嫌がらせに近い行動を取る人間がいる」状況

典型的な例としては 高速道路の追い越し車線を制限速度以下で走り続ける 所謂「蓋」走行がある
確かに制限速度を守っているのだから何も悪くないのかもしれないが ハッキリ言って邪魔である

高速道路でも一般道でも後ろから近づいて来る車がずっとハイビームだったら 眩しいし気分も悪い
もしそのハイビーム車に注意をしたとしても「法律も守ってる」と言われたらそれまでだ

実際にハイビームに怒った人から暴言や暴力を受けたとかの噂もある

まあ そういった感情的な部分は“車のヘッドライトはハイビーム標準”というのが浸透してくれば徐々に薄れていくのかもしれないが 取り締まり強化で浸透させようというのは なんか違うと思えてしまう

今日の朝にやっていた情報番組で ロービームのまま走っていたときの危険を寸前で回避したドライブレコーダーの映像を数例流していたが あれはハイビームにしていたら回避できたとかの前にもっと考えなければならないと思った

一番の問題は 街灯もなく暗い道を走るときにハイビームを使わなかったドライバーの意識だ

例えば私なら あれだけの暗さの道で前方が見えづらい状態だったらハイビームにしないと安心して前に進めないだろう

おそらくあの映像のドライバーは 前方に潜む危険をまったく考慮していないからロービームでも走ることができていたのだろうと思う
つまり 道路が暗いだとかに関係なく 脇道からの飛び出しだとか路線変更してくる車だとかがいる状況の変化に いちいち驚いているんじゃないかと思ったのだ

悪く言えば何も考えないボーッとした状態で走っているんじゃないか……と

“普通の感覚”を持っていれば 暗い道の前方をハイビームで確認するのは当たり前のことなので わざわざ取り締まったりするんじゃなくて 注意喚起を促したり 歩行者側にも夜間で見失われにくい服装で歩くことを勧めたりとかの方がよっぽど大事なんじゃないかと思う

あー なんだか説教くさい文章になってしまった

個人的に 暗くて前が見えにくい状況では本能に従って積極的にハイビームを使うし 他の車や歩行者の迷惑にならないように普段はロービームで走ると思う
結果的に事故を起こしたり事故の原因になったりするのは嫌なので 常に思考を止めずに走って行きたいと思うのだ

プログラマーという幻想

小学校でのプログラミング教育を必修化の動きがあるとか……

親たちのアンケートでは約半数が賛成だとか?!

その親たちが理想とするエンジニアは「スティーブ・ジョブズ」「松下幸之助」「ビル・ゲイツ」だとか?
……これはツッコミ入れておきたいところだが それは後ほど

そしてその親たちは 過半数が子供が将来プログラマーやITエンジニアになってほしいと願っているとか……

この親たちが思うプログラマーってどんなのだろうと考えてみると 難しいIT用語をペラペラとしゃべりながらキーボードをカチャカチャとタッチタイプしているような ハリウッド映画に出てくるハッカーのイメージなんじゃないかと思えてきた
それなら標準的な配置のキーボードを用意してタイピング練習ソフトでも使えば一週間程度で立派な「ハッカーっぽい人」が出来上がる
メモ帳ソフトにテキトーな雑誌記事でも打ち込んで エンターキーを「ッターン!!」と叩けば ますますそれっぽい

あまりコンピュータに詳しくない人からすると SEもプログラマーもCGデザイナーもデータ入力のオペレーターも 同じように見えるらしいので キーボードやマウスを使って仕事をこなしている人全般を「プログラマー」と思っているのではないか?などと思ったりもする

それはともかく

普通に考えて 現在の小学生が就職を考える頃の将来でも コンピュータ業界でプログラマー不足が続くとは考えられないのだが 文科省あたりは「現時点で不足しているのだから今から人材を用意しておこう」という目論見らしい

ただ 経験者から言わせてもらえば コンピュータの基本動作さえ理解していれば プログラミングなんて3ヶ月程度の研修で出来るようにはなるから 小学生の頃に無理して覚える必要は全くない
しかも プログラマーには明確に向き不向き(つまり適性)があって 向いてない人だといくら頑張っても習得が厳しいという側面もあるので 義務教育向きじゃないと思う

このプログラマーの適性については 学業の能力とはあまり関係がないので プログラミングが出来る出来ないで差別されるものでもない
一説には統計的に約半数が向いてないとか言われている

音楽や外国語と違って プログラミングなんて子供の頃からやらなきゃいけないという要素が全然ないと思うので 小学校の必修科目には入れない方がいいと思うのだが……

だいたいにして現在プログラマーが不足していると言われるのは 汎用大型コンピュータで運用しているシステムを 今どきのシステムに移行するための人材が不足しているとか 増え続けるWebサイトやスマホアプリの開発需要があるという 現時点でのIT事情からであって 10数年後もこの状態が続くようならプログラミング環境の技術がまるで進歩しないってことになる

さすがにそこまで技術が進まないほど人類はバカではないと思うのだがどうだろう

最初に書いた親たちが理想とするエンジニアは どの人もその業界の黎明期に将来性を見出して 理想を追い求めた人物だ
既に成熟しているコンピュータの世界では とんでもない才覚があったとしても今から大成するのは難しいだろう
生活費を得るための職業としてはこの先も割と安定しているだろうが 仮にいまスティーブ・ジョブズと同じような才覚を持った人がいたとして ITエンジニアを目指すだろうか?

おそらく 今は誰にも注目されていないけど将来性を感じるようなものの発展に全力をあげていくのではないだろうか

その将来性を見出すためには いろいろなことに興味を持って 面白いと思ったら全力で取り組める感性が必要だろう

だから親たちは子供に学習課題を増やしていくことばかり考えず 自由な発想や好奇心を育てることに注力してほしいものだと思う

映画と原作

最近「映画 進撃の巨人」についての酷評をよく目にする
私自身は漫画の実写映画化 特にファンタジー要素の多いもので良い評判を聞くことがないので 実写映画化の話題が出た当時から興味はなかったのだが 最近目にする酷評のオンパレードに考えさせられるところがある

以前から疑問…というか 未だ完結していない原作をアニメや映画とかの映像化しようとすることが失敗に繋がっているんじゃないかと思っていた
まあ 完結とは言えなくても 例えば長編作品の○○編が終わってるとかなら問題ないとは思うけども

完結していないということは 登場人物がどんなキャラなのか確定していないということなので 原作で表現されている部分だけでキャラの人格が設定されることになる

具体的な例で言えば 2003年から放送されたアニメ「鋼の錬金術師」がある
原作は全27巻にも及ぶ長編作品なのに 人気があるからという理由だけで原作7巻あたりが出た程度でアニメ化されたのだが 原作のネタバレを防ぐためもあってかアニメは設定から大幅に改変されたものとなった
改変されたストーリーそのものは原作とはかけ離れながらもそれなりに面白かったのだが 登場人物の性格が原作とかなり違っているのがストーリーの面白さをかなり阻害していた
原作漫画の登場人物は敵方でさえも魅力的なのだが このアニメの方ははっきり言って「下衆い」のである
主人公でさえも魅力的には思えないほどだったので 単純に脚本が悪いのだろう

思い出補正なのか「アニメのハガレンはけっこう面白かったよね」という意見をよく耳にするが 2009年から原作準拠で作製されたアニメ「鋼の錬金術師 FULLMETAL ALCHEMIST」を見るなり原作を全部読むなりしてからもう一度旧版の全編を見てほしい
登場人物が下衆という意味を分かってもらえると思う

名作あるいは佳作といわれる映像作品は登場人物に魅力があって それが物語の進行を支えている
シリーズ化されているものなどは登場人物に魅力がなかったら見ていられない

進撃の巨人は原作も読んでるしアニメも見たが 今回の実写映画は登場人物の設定がかなり変えられているらしい
それが魅力を増す方向に行っていれば良いのだが 今回の映画では所謂日本のメロドラマっぽくなってるとか

制作スタッフが予算がないことを言い訳にしてるとかの情報も流れているが メインキャラの人物設定に予算は関係ないと思うのだけども

舞台設定やストーリーに原作者も絡んでるという情報もあるが 最近の日本映画やドラマでよく使われる原作改変の言い訳として原作者が使われてるような気がしないでもない

まあ 進撃の巨人に限らず 漫画原作の実写化で成功した例は極端に少ないので 企画段階から根本的に見直さないといけないことは山ほどありそうだが 何はともあれ未完の作品を映像化するときには 原作と同レベルか超えるぐらいの作品を新たに作るぐらいの覚悟は必要なんじゃないかなと今回の騒動を見ながら思ったのだった

常識人

最近はアニメもドラマも あるいはハリウッドでさえも良質なシナリオが不足していると言われるようになった
国産ドラマや邦画はそもそも見ないので評価は避けるが アニメや洋画で作品はたくさん発表されても 面白いと思えるものが極端に少ないとは感じさせられている

そこでちょっと考えた

ネットの普及でいろんな人の価値観に簡単に触れることが出来るようになって 所謂「常識」というやつが作品を作る側でも分かんなくなってるのではないか?と
エンタメ作品を作る上で常識が必要なのか?とか ぶっ飛んだ考えこそ必要なのでは?と思うかもしれないが いろんな作品を見てるときに よく出来たものは「常識人の視点」というのが必ずあると思う
作品中の主要な登場人物がどんなにぶっ飛んだキャラだとしても そのぶっ飛び具合と対比する常識人とか普通の人とかがいないと どんな活躍も悪行も映えないと思うのだ

具体例としてこの夏のアニメで1話を見て切った「WORKING!!!」という作品がある
これの第1期「WORKING!」はとても面白く BD-BOXも買ったぐらい気に入った作品だったが2期は微妙…というよりはっきり言って面白くなかった
その面白くなかった2期とまったく同じ雰囲気が感じられた3期のWORKING!!!は その先も見続ける気力が出なかったのだ

なぜ面白いと思えないか

WORKING!!!では笑いを誘発させるようなBGMやSEが上手く使われていないとか 会話のテンポが悪いとかの演出の拙さもあるが 全体的に奇人変人動物園になってしまったことがある
登場人物が全員「ちょっと変な人」で それを中途半端な檻の外から眺めているような気分にさせられてしまうのだ
そして1期では一応常識人的立場で物語を進めていた小鳥遊の視点がなくなったせいで ツッコミが入らなくなってしまった
本当に残念だと思う

それはともかく

私が中学生の頃に読んだ星新一のエッセイ集「きまぐれ星のメモ」は今の私にいろんな影響を与えてくれたが 今回のテーマを考えついた元になった記述がある

星新一をはじめ 小松左京などのSF作家はいつも「常識人」であることを心がけているという
奇想天外なアイデアを文章にするSF作家は 世間の常識をしっかりと意識してないと せっかくのアイデアが活きてこない
本人がどんなに奇想天外なアイデアだと思ったとしても 世間の常識という基準点がないと読者の興味を引く物語とはならないということだ
これは星新一がSF作家なので 周りから奇人変人だと思われてしまいがちなことに対する言い訳めいた話なのだが これは何もSF作家に限らず作家が常識という基準点を持たないまま物語を組み立てたとしても それはただの妄想で誰もが面白いと感じられる物語にはならないと思うのだ

そして最初の仮説に戻る

ネットの普及…特にスマホが普及してからのネットは爆発的に利用人口が増えた
そして誰もが好き勝手に自分の意見をネットに発信できるようになった
作品とか製品とかの一般向け商品についての意見を誰もが言えるようになったこと自体は良いことだと思うが 問題はその意見の全部が有用だとは限らない むしろ雑音のような意見の方が多いと感じられることだ

あくまで私見だが エンタメ作品にしても一般向けの工業製品にしても 素人の意見を取り入れすぎたものは失敗していると思う
高い能力を持ったものが強い意志を持って設計したものを常識人が精査し 腕の良い職人が製品化するという流れで作られたものはやはり良いものだと思うのだ
「これが絶対に良い」と天才的な人がアイデアを出しても 設計段階でいろいろな意見を取り入れると だいたい変な方向に行ってしまう
簡単に言うとアイデア段階ではインパクトも面白さもあるはずだったものが いろんな方面からの制約を取り入れているうちにインパクトも面白さもないものになってしまうことが多いというか

でも 天才的な人のアイデアがあまりに常識外れなことも有り得るので それを精査する工程は絶対に必要だとは思う

ここらへんのバランスが取れている作品・製品がヒット作になるんじゃないかなと思うのだ
なので 作品創作に関わる人はネットの批評などまったく気にしないで 自分達が面白いと思えるものを作ることに専念して欲しい

この投稿の「常識人」というタイトルとはちょっと外れた流れに見えるかもしれないが インパクトも面白さも常識を基点としてのものじゃないと伝わらないと思ったので 作品を見る側の視点に委ねないで登場人物として常識人をしっかり設定したらいいのでは ということを言いたかったのだ

まあ 話の進め方が強引なのは認める