常識人

最近はアニメもドラマも あるいはハリウッドでさえも良質なシナリオが不足していると言われるようになった
国産ドラマや邦画はそもそも見ないので評価は避けるが アニメや洋画で作品はたくさん発表されても 面白いと思えるものが極端に少ないとは感じさせられている

そこでちょっと考えた

ネットの普及でいろんな人の価値観に簡単に触れることが出来るようになって 所謂「常識」というやつが作品を作る側でも分かんなくなってるのではないか?と
エンタメ作品を作る上で常識が必要なのか?とか ぶっ飛んだ考えこそ必要なのでは?と思うかもしれないが いろんな作品を見てるときに よく出来たものは「常識人の視点」というのが必ずあると思う
作品中の主要な登場人物がどんなにぶっ飛んだキャラだとしても そのぶっ飛び具合と対比する常識人とか普通の人とかがいないと どんな活躍も悪行も映えないと思うのだ

具体例としてこの夏のアニメで1話を見て切った「WORKING!!!」という作品がある
これの第1期「WORKING!」はとても面白く BD-BOXも買ったぐらい気に入った作品だったが2期は微妙…というよりはっきり言って面白くなかった
その面白くなかった2期とまったく同じ雰囲気が感じられた3期のWORKING!!!は その先も見続ける気力が出なかったのだ

なぜ面白いと思えないか

WORKING!!!では笑いを誘発させるようなBGMやSEが上手く使われていないとか 会話のテンポが悪いとかの演出の拙さもあるが 全体的に奇人変人動物園になってしまったことがある
登場人物が全員「ちょっと変な人」で それを中途半端な檻の外から眺めているような気分にさせられてしまうのだ
そして1期では一応常識人的立場で物語を進めていた小鳥遊の視点がなくなったせいで ツッコミが入らなくなってしまった
本当に残念だと思う

それはともかく

私が中学生の頃に読んだ星新一のエッセイ集「きまぐれ星のメモ」は今の私にいろんな影響を与えてくれたが 今回のテーマを考えついた元になった記述がある

星新一をはじめ 小松左京などのSF作家はいつも「常識人」であることを心がけているという
奇想天外なアイデアを文章にするSF作家は 世間の常識をしっかりと意識してないと せっかくのアイデアが活きてこない
本人がどんなに奇想天外なアイデアだと思ったとしても 世間の常識という基準点がないと読者の興味を引く物語とはならないということだ
これは星新一がSF作家なので 周りから奇人変人だと思われてしまいがちなことに対する言い訳めいた話なのだが これは何もSF作家に限らず作家が常識という基準点を持たないまま物語を組み立てたとしても それはただの妄想で誰もが面白いと感じられる物語にはならないと思うのだ

そして最初の仮説に戻る

ネットの普及…特にスマホが普及してからのネットは爆発的に利用人口が増えた
そして誰もが好き勝手に自分の意見をネットに発信できるようになった
作品とか製品とかの一般向け商品についての意見を誰もが言えるようになったこと自体は良いことだと思うが 問題はその意見の全部が有用だとは限らない むしろ雑音のような意見の方が多いと感じられることだ

あくまで私見だが エンタメ作品にしても一般向けの工業製品にしても 素人の意見を取り入れすぎたものは失敗していると思う
高い能力を持ったものが強い意志を持って設計したものを常識人が精査し 腕の良い職人が製品化するという流れで作られたものはやはり良いものだと思うのだ
「これが絶対に良い」と天才的な人がアイデアを出しても 設計段階でいろいろな意見を取り入れると だいたい変な方向に行ってしまう
簡単に言うとアイデア段階ではインパクトも面白さもあるはずだったものが いろんな方面からの制約を取り入れているうちにインパクトも面白さもないものになってしまうことが多いというか

でも 天才的な人のアイデアがあまりに常識外れなことも有り得るので それを精査する工程は絶対に必要だとは思う

ここらへんのバランスが取れている作品・製品がヒット作になるんじゃないかなと思うのだ
なので 作品創作に関わる人はネットの批評などまったく気にしないで 自分達が面白いと思えるものを作ることに専念して欲しい

この投稿の「常識人」というタイトルとはちょっと外れた流れに見えるかもしれないが インパクトも面白さも常識を基点としてのものじゃないと伝わらないと思ったので 作品を見る側の視点に委ねないで登場人物として常識人をしっかり設定したらいいのでは ということを言いたかったのだ

まあ 話の進め方が強引なのは認める


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